心の赴くままに!

赤に染まる朝日を見て、青空と白い雲を眺めて、金色の夕陽を見る、そして夜空の星に語りかける、、
そんな日々を過ごしたい。心の赴くままに!

ヤマハの歴史

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現在YAMAHA XJR1300に乗っている。

YAMAHAの発想、歴史なども好きな理由の1つだ。

YAMAHAは、誰もが知る楽器メーカーであるが、戦時中軍需品の軍用機のプロペラを製造した。

ピアノの製造には、木工の技術が必要である。

ここから家具の製造もした。木工の技術があるならと軍の依頼で「木製のプロペラの製造ができるだろう!」との事で戦闘機のプロペラを製造した。

プロペラを作るなら、それを駆動するエンジンも作ろう!

エンジンならバイク、後発の日本楽器製造でしたが、開発したオートバイ「YAMAHA125(YA-1)」写真↑は第3回富士登山レースに初出場で優勝し、赤とんぼの愛称で爆発的な売れ行きとなり、わずか1年でトップブランドとなる。

エンジンなら船もと、造船も始める。船ならFRPFRPならプール、プールなら浄水器、浄水器に失敗して藻が大繁殖、そこから藻の養殖始めてバイオ事業化と、非常に夢がある。

楽器が電子化して、ネットワークなど電子機器にも精通してきた。

バイクも今後は電子化、これからどんなバイクを発想するのか楽しみだ!





 

ホンダの歴史

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今では、日本の「朝の音」だ!

世界160ヶ国以上で売れられ、もう少しで1億台に達するホンダのカブ、朝の新聞配達、この音が目覚ましになっている人も多いだろう。

このカブを生み出した本田技術研究所は、太平洋戦争の浜松大空襲で焼け野原になった浜松の街から出発したのは、誰もが知るところだ。
1946
年、陸軍で使用していた無線用小型エンジンを改良し、自転車に取り付け試走した。

1947年、独自のエンジン開発に着手して「A型エンジン」を完成させた。

1949年、バイクとして本格的なドリーム号が完成。

1952年、本田技研工業と改め、白いタンク・赤いエンジンカバーのカブF(写真↑)が生産された。


このカブFのヒットで、その当時浜松では30社くらいバイク製造の会社が出来た。
初めは良かったが、直ぐに他メーカーに追従(パクられ)ジリ貧状態でした。
その時、本田宗一郎が発想したのではなく、NO2の藤沢武夫が危機感を覚え、本田宗一郎に「新しい原付を作ろう」と提案した。
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皆さんは、結構勘違いされているが、本田宗一郎さんは最初とても否定的だった。
それは、ドリームD型(写真↑)の成功を機に、もっと凄いハイパワーなバイク、正にドリームなバイクを作りたがっていた。
つまりCUBの発案は本田宗一郎ではなく藤沢武夫なんですよ!
でも、自動遠心クラッチというクラッチレス機構が生み出したのは、本田宗一郎でしょう。

こちらの動画、本田技研工業設立65周年を記念してHONDA UKが公開した動画。「HONDAHands



 

日本バイクの歴史

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日本における最初のオートバイは大阪の貴金属商のもとで生まれた島津楢蔵によって1909年に開発されました。

1930年代には宮田工業が国産のマシンを量産し流通しました。

戦前、三共がハーレーとのライセンスを結び、ハーレーダビッドソンのマシンを国産の陸王という名で量産したこともある。

戦後の日本においては、敗戦国である日本が飛行機や乗用車の製造を禁止されたことにより、多くのメーカーがオートバイの製造・販売に転じることになりました。

当時陸軍機の製造で有名だった現在の富士重工が発売した『ラビット』写真↑が初の国産のスクーターであったと言われている。
三菱重工より分社した中日本重工が『ラビット』の登場の翌年に製造した『シルバーピジョン』も大ヒットし、日本国内におけるスクーターの流通に大きな影響を及ぼしました。

終戦の直前までは三共の陸王が単独で製造を続けていたオートバイ業界もこの時点で圧倒的な拡大した。
しかし、乱立した多くのメーカーは同業他社との競争に後れをとり、徐々にその数を減らした。
そんな中でもカワサキが他社メーカーの技術を吸収していった。
ホンダは軍事無線機用小型エンジンを基に自転車のための補助エンジンを開発したのが最初のオートバイ事業だ。

これがカブの前身となったマシンなのだ。


バイクの歴史

Daimler_Reitwagen_color_drawing_1885_DE_patent_36423

オートバイの起源となった乗り物を発明したのは、当時フランスで有名だった発明家の『ルイ・ギヨーム・ペロー』だ。

この時は、現在の様な燃料を爆発させて得た圧力で直接機械を動かす「内燃型」エンジンではなく、一度燃料でお湯を沸かして得た水蒸気で機械を動かす蒸気機関でした。

これがオートバイの元祖である。

それが発表されたのが1873年のウィーン万博です。
その後、1885年に今のメルセデスベンツを製造しているダイムラー社(当時の名前はダイムラー・モトーレン・ゲゼルシャフト社)の前身の会社が、はじめて『オートバイ』を製造しました。

1903年に現在の電動自転車にかなり近いタイプの蒸気機関に頼らない、内燃機関エンジンを作りました。最高時速は12km/hハンドルも現在のMT車の様子に車体を傾かせた遠心力で曲がることを前提としていない、テコの力で前輪の方向を曲げるタイプのものでした。
1920
年アメリカのエンジン設計技師ウィリアム・ハーレーと技術者アーサー・ダビッドソンが現在のオートバイの原型に近い形を作り上げたのだ。
ZweiRadMuseumNSU_Reitwagen


次は、日本のバイクの歴史。

バイクツーリング思い出のスナップ10「鬼押ハイウェイ」2015/6

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上信越高原国立公園の真ん中を縦走する全長約60kmの白根火山~浅間ルート、の万座ハイウェイ、そして鬼押ハイウェイは、長野県北佐久郡軽井沢町から群馬県吾妻郡嬬恋村鎌原に至る、延長15.6kmの有料道路である。

この鬼押ハイウェイは、鬼押出し園に来る観光客のため(株)コクドが作った観光路線、一般自動車道である。

鬼が怒って押し出したと言われる、鬼押し園の奇岩は地球上の物とは思えない。

ハイウェイをバイクで走ると、広々とした高原のさわやかな気配、白煙たなびく浅間山の雄大な眺め。カーブを曲がるたびに新しくひらける山並みは、まさに自然の大パノラマだ。

 



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訪問有難うごさいます。
私は本ブログ管理者のふーと申します。
主人の赤影を紹介します。
生まれは能登、現在金沢に住む、バツ1の男性。
体は中年、心は少年!
いまだに夢を追っかけて、愛を捜し求めているらしい。これから赤い糸で結ばれる相手が何処かにいると今も信じる。寂しいのは嫌いだが、寂しい自分を外から見ているのは好き。
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