それは誰か!

200px-Eiichi_Shibusawaそれは「三井」です。またしても「第二次三井三菱海戦」の始まりです。
三井物産は体制を建て直し反三菱勢力が再結集するのです。
この三井の後ろ盾の中に、僕が事業家として最も尊敬する、岩崎弥太郎の強敵となった渋沢栄一
埼玉の生んだ偉人、資本主義の父と言われた渋沢栄一は、幾つもの国立銀行(現みずほ銀行など)東京ガス、東京海上火災保険、王子製紙、秩父セメント(現太平洋セメント)、JR東日本、サッポロビール,帝国ホテルなど、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上と言われています。
渋沢栄一と岩崎弥太郎は偉大な実業家ですが、基本的な考え方はまるで違います。
二人の面白いエピソードがあります。
明治11年8月、渋沢栄一が三菱創設者の岩崎弥太郎から料亭に招かれます。
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写真↑、渋沢栄一


岩崎は渋沢より6歳年上で、西南戦争の軍需輸送で大もうけし、政商として飛ぶ鳥を落とす勢いの岩崎は、対抗する海運会社が必要と考えていた渋沢へのけん制が目的で招いたのですが。

岩崎「僕と君が手を握れば日本の実業界を思うように動かせる。意味のない競合は避けて、手を組もう。」
渋沢「競合に意味がないとはどうしたことか。あなたの話は、独占という欲に目のくらんだ利己主義だ。申し出を受け入れるわけにはいかない。」
岩崎「君がやっている株式会社制度は、船頭何人もいる船のようなもの。事業というのは、唯我独尊で思いのままにやってこそ醍醐味がある。オーナー企業こそが理想の男の夢である。なぜに株主なるものを集めてまで事業を行うや」
渋沢「一人の知恵より衆人の知恵。一人の財力より衆人の財力を合併して大商いをなすべし。」 
岩崎「株主を多く集めれば、派閥ができたり主導権争いが生じたりする。会社の利益はまったく社長の一身に帰し、会社の損失もまた社長の一身に帰すべし。」
渋沢「事業は個人の私利私欲のためにあらず。広く社会から人力と財力を結集し、公益になることを考えるべし。あんたは小判だの宝石だのを懐に入れてあの世へ行くおつもりか。」

渋沢栄一は怒り、なじみの芸者を連れてその場を立ち去った、と言うお話です。
さて!「第二次三井三菱海戦」その後どうなったのでしょう。では又、明日は最終回です。