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光秀が生きていたのではないか!との説の根本、山崎の戦いは旧暦6月、新暦だと7月になる。その為光秀の首は夏の暑さでかなり傷んでいたのではないだろうか。

死んだ人の顔を見た事がある人は解ると思うが、血の気が無い無表情の顔は解り難い。

それに腐敗していたのなら、なおさらな事である。

土民・中村長兵衛が一撃で光秀の脇腹を竹槍で刺したとされるが、ここにも疑問が残る。

・長兵衛は13人の家臣に気づかれずに接近できるのか!

・大雨の闇夜の竹やぶで、光秀の顔も知らぬ長兵衛は本人と認識できるのか!

・英雄のはずの長兵衛、その後の寛永年間の調査で、百姓「中村長兵衛」を知る村人は小栗栖にいなかった!

頭の切れる光秀が、追っ手対策の影武者を用意していたはずだ。

明智本家の地盤、岐阜・美山町には影武者「荒木山城守行信」と伝承れている。

光秀の側で殉死したと伝えられている2人の家臣は、その後も生きて細川家に仕えている

光秀が討たれた小栗栖は天皇の側近の領地。領主の公家は生き残った明智一族の世話をするほど光秀と親しい。この土地ではどんな工作も可能だ。

死後4日後に秀吉の所に光秀の首が持ち込まれたが、本人確認は出来なかったと推測する。

やはり、光秀は生きていたと考えるべきだろう!





生きていた痕跡を追ってみよう。

1、        中嶋さんのコメント

岐阜県山県市の山の中に明智光秀の墓があります。真意は定かではありませんが、関ケ原の合戦に参加する折、川でおぼれ死んだという説があります。

「この墓を掘り起こした人がいるらしいですが、川原の石が出て来たそうです。」

2、        石井さんのコメント

新しい歴史ミステリーの始まりですね。期待しています(^^)/
僕個人は、岸和田本徳寺の話の検証をお願いしたいです。

「そうですね!この肖像画も光秀の死んだ後ですものね。」

この2つも検証したいと思いますが、南光坊天海と光秀が同一人物との説です。

3、        日光東照宮に光秀の家紋が使われている。

4、        日光の高台に明智平と名が付いている。

この2点から南光坊天海と光秀が同一人物探っていこうと思います。

5、        比叡山の松禅院には「願主光秀」と刻まれた石灯籠が現存する。

寄進日がなんと慶長20年(1615年)。日付は大坂冬の陣の直後だ。





さーどれから調べようか!

次回、お楽しみに!