場所紹介
鳥越城から、手取川の支流大日川のそのまた支流、堂川の谷を6kmほど遡ったところに五十谷(ごじゅうだに)の集落がある。
集落南端の八幡神社境内に立つのが、幹周/7. 90m、樹高/39m樹齢1200年大杉である。
近くに清水もあるので、どちらかと言うとそちらの方が目的かも知れない。
境内に入ると、「これかー」と大杉は、直ぐに分かった。
御参りを済ませて、大杉を見やげた。
太い枝を水平に長く伸ばす姿態は、ウラスギ(アシウスギ)のなかにあっても極端で、まるで別の樹種を見ているようだ。
参詣者の危険回避のため、整理された大枝も多く見られる。本来ならば、もっとずっとたくさんの腕を伸ばしていたと思われる。
この老杉の下で拍手を打ち、樹の梢で「 おう」と答える声があれば、願いが神に通じたとされるが、やってみたが答えはなかった。
通称は「神明の大杉」。樹木に触れると、水の流れる気配が鼓動のようだ。
流石に能登も飽きて来たので、久しぶりにトレーラーを牽いて白山の麓に!
白山の麓は、人に合うこともないので、安全だろう!
いつもの定位置にトレーラーを止めて、周りの山々を眺めながら珈琲を飲む。
向かいの山の上に城跡がある事を思い出した。
この辺りは、小さな時から何度も訪れているが、城跡に行った事がない。
沢山の人が殺された土地なので、今までは行く気がなかったのだが、何かが気持ちを変えた。
この鳥越城は、加賀一向一揆で有名だ。
蓮如(れんにょ)が広めた浄土真宗の門徒達が、1488年、時の守護大名富樫政親の政治のやり方に不満を持ち立ち上がったのが、加賀の一向一揆だ。
これに勝利して、室町幕府の支配がおよばない大国、浄土真宗王国が誕生した。
この農民の国は100年も続いた。
戦国時代になり、織田信長が力を増してきた1580年柴田勝家、1582年佐久間盛政に鎮圧される。
その時、激しい抵抗をした最後の砦が、この鳥越城だ!
300余人が磔に処せられた土地でもある。
登ると、手取川と大日川の合流点に位置する丘陵先端部を利用して築かれているので、2つの川がよく見え、広く盆地が見渡される。
1982年4月3日に能登大橋は、55億円かけて完成した。
1982年と言えば、プー太郎で毎日高松のバッタン子を引っ掛けて遊び回っていた頃だ。車の免許も取得して、指先が出る皮の手袋、西部警察大門のサングラスでブールバード3S1800ccに乗っていた。
始めは有料道路でかなり高くて、何も無い能登島にお金をかけて行く必要も無かった。
1998年7月1日、償還完了により無料開放されてから、初めて渡った。
初めて渡った時は、石川の能登にこんな橋があると、自慢できると思った。
長さは1,050mだが、船が通る為に真ん中が高くなっている。
和倉側から進むと、見た目以上の坂だ。
そして、海を高い位置から見渡し、和倉温泉の全容が右に見えると、何かいつもワクワクする。
夜は、和倉温泉の明かりが海に照らされて、格別な景色だ。
下って行くと、屏風瀬戸(びょうぶせと)の岩肌が生々しく見えてくる。
その上の樹木の色は、季節によって華麗に変化する。
毎年、海の日「トレー友の会」のオフ会あるのだが、今年の開催は難しいだろう!
でも昨年まで、皆さんトレーを牽いて、どんな気持ちでこの橋を渡ってきたのだろう!
ひがし茶屋街の裏には、卯辰山があり僕のもう1つの散歩コースでもある。
金沢の建築物は、この山より高く出来ない規則があります。
浅野川大橋を渡り、主計町茶屋街を左に見て進むと、直進は兼六園左に折れると金沢の台所近江町がある。
近江町を右に折れて直進すると香林坊、そして片町がある。
片町のスクランブル交差点を中心に何百と店がある。
若い頃は、毎日此処へ飲みに出た。
スクランブル交差点を颯爽と横切り、クラブ回りをすると、大物のなったような気がしたものです。
バイクで日本一周をした時、他県の繁華街で店を選ぶ時、90%の確率で失敗しなかった。
これも若い時、片町で毎日飲んだ経験が役に立ったのだろう。
しかし、最近は様子が変わり、新幹線効果で金沢駅前に店が多くなった。
と言ってもまだまだ片町は、夜になると何処と無く人が湧いてきます。