布施明の「シクラメンの香り」前の歌が好きだ!
恋、愛の園、愛は不死鳥などだ。
赤に染まる朝日を見て、青空と白い雲を眺めて、金色の夕陽を見る、そして夜空の星に語りかける、、
そんな日々を過ごしたい。心の赴くままに!
この歌が世の中に流れている頃、僕の通っていた中学は、同級生34人漁村の小さな学校だった。中2の時、町の学校と統合する事になったのだ。
団塊の世代で生徒も多く、全生徒数は何千人!
僕達34人は、12クラスにバラバラに分けられた。
この統合は、僕の人生を変えた!「いじめ」だ。
田舎から途中に入って来た僕達は、毎日いじめにあったのだ。
僕は、早熟で小6で170に62k、勿論クラスで一番大きかった。
それまでは、喧嘩、暴力などした事が無かったが、いじめられた子は、毎日僕のところに助けを求めてくる。
その度僕は、違うクラスを回って睨みをきかす。
時には、校外で決闘だ。
強くなる為に、空手の本を買って独学勉強、渚で実践練習!
こんな生活を毎日していると、気が付くとドカンの学生服、裏地の模様は唐獅子牡丹、額にスリコミ、さらしを巻いて、ポケットには鉄のチェン!
しかし、自分の部屋ではこの曲を聞いて、まだ逢えない女性を夢見ていた。
この曲は、1985年当時、アメリカ国内だけでシングル400万枚、アルバム300万枚を売り上ました。最終的にはアメリカだけで750万枚のシングル(7インチと12インチ版が用意された)が売れ、すべての印税はチャリティとして寄付されています。
1984年にイギリスのボブ・ゲルドフによるエチオピアの飢餓救済プロジェクト『バンド・エイド』が発表したチャリティ曲「Do They Know It’s Christmas?」の成功を受けて、1985年にアメリカのアーティストがアフリカの飢餓と貧困を解消する目的で『USA for Africa』というプロジェクトを立ち上げ、作られたキャンペーンソングです。
作詞・作曲はマイケル・ジャクソンとライオネル・リッチーが共同で行い、プロデュースはクインシー・ジョーンズが担当。
この歴史的なセッションの数日前の1月22日、ケニー・ロジャースが所有するライオン・シェア・スタジオにてクインシー・ジョーンズ、マイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチー、スティーヴィー・ワンダーが集まって先行レコーディングを行い、翌日にマイケル・ジャクソン、ライオネル・リッチーによるデモテープが完成し、参加者に送られましたて、そして1月28日の夜、アメリカン・ミュージック・アワードの直後、アメリカのみならず当時の世界のポップス界を代表する45人が、ハリウッドのA&Mスタジオに集結してレコーディングされたのです。
この夜、マイケル・ジャクソンはアメリカン・ミュージック・アワードを欠席し、一足先にコーラスの目安に使うためのガイド・ボーカルの録音を行っていました。
21時を過ぎると、続々とアーティストが到着し、 ライオネル・リッチーはアメリカン・ミュージック・アワードの司会、シンディ・ローパー、ティナ・ターナーは歌ったりと、多くのアーティストがこの授賞式から直行でした。
22時、まず45人のアーティストが全員でユニゾンと、ハーモニーのパートを録音。そしてコーラスの間のソロ・ボーカルの録音は、約20人のアーティストによって翌日早朝4時に始まり、午前8時にようやくすべてのレコーディングが終了しました。
アル・ジャロウ
ウィリー・ネルソン
ウェイロン・ジェニングス
キム・カーンズ
クインシー・ジョーンズ(プロデューサー及び指揮)
ケニー・ロギンス
ケニー・ロジャース
ジェフリー・オズボーン
ジェームス・イングラム
ジャッキー・ジャクソン
シンディ・ローパー
シーラ・E
スティーヴィー・ワンダー
スティーヴ・ペリー
スモーキー・ロビンソン
ダイアナ・ロス
ダリル・ホール&ジョン・オーツ
ダン・エイクロイド
ディオンヌ・ワーウィック
ティト・ジャクソン
ティナ・ターナー
ハリー・ベラフォンテ
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュース
ビリー・ジョエル
ブルース・スプリングスティーン
ベット・ミドラー
ポインター・シスターズ
ボブ・ゲルドフ
ボブ・ディラン
ポール・サイモン
マイケル・ジャクソン
マーロン・ジャクソン
ライオネル・リッチー
ラトーヤ・ジャクソン
ランディ・ジャクソン
リンジー・バッキンガム
レイ・チャールズ
昨日の「徹子の部屋」ブルー・コメッツが出演していた。
「懐かしいなー」
「皆、70代―」
「1人居ないなー」
井上忠夫は、2000年5月自殺していた。
病気がちの妻の看病疲れや、3月に手術した網膜剥離の術後の経過が思わしくないことを苦にしていたらしい。
翌年の9月、自宅内で妻の遺体が発見される。首にひもが巻き付いた状態で死後数か月経過しており、その状況から自殺と断定された。
「そうなのかー」
「悲惨やなー」
ロカビリー時代に内田裕也がとっさに「井上ダイスケ」と誤って紹介したことから、仲間内では「ダイちゃん」と呼ばれていたのがもともとのきっかけで、解散後は「井上大輔」名乗って音楽活動をしていた。
YouTubeで音楽葬を見つけた。
「この歌も彼なのかー」