「第二次三井三菱海戦」はどうなったのでしょう。

反三菱勢力は発起人に三井武之助、大倉喜八郎、川崎正蔵、渋沢喜作(渋沢栄一の義兄)など経済界の重鎮が顔を揃え、さらに全国各地の豪商らが参集します。
前回と異なり、今度は強力な体制で臨んできます。
英国製新鋭艦6隻を含む24隻体制を作り上げます。対する三菱は27隻です。
反三菱勢力は団結して追い上げてきたのです。

弥太郎に運があると言いましたが、またまたまた撤回です。
蜜約関係にあった大久保利通は暗殺され、大隈重信も政変で役職を解かれ、政府の中枢には三菱をバックアップする者は誰もいなくなったのです。

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井上馨、大久保利通大隈重信




対する三井勢には、伊藤博文、井上馨など長州勢力を味方につけ、政府による保護の約束を取り付けます。
民権派の連中も参戦し、弥太郎たたきに拍車が加わります。
マスコミも反三菱勢に味方をして筆を揃えて三菱を非難するのです。
このやり方は、かつての弥太郎が「第一次三井三菱海戦」の時取った戦術をそっくり真似て、三菱の追い落としを企てたであります。
さすがの剛腹な弥太郎も今度ばかりは参ったようです。
営々として築き上げた全財産を失うかも知れない事態が続きます。激務と深酒の日が続き、心労と酒が過ぎた弥太郎は病に倒れるのです。
明治182月、弥太郎は闘い半ばにして無念の最後を迎えたのです。

弥太郎亡きあと、共倒れになっては困る!政府が調停に乗り出し、両者を合併させるのです。
こうして誕生するのが日本郵船です。
弥太郎の人生は、幸せだったのか、不幸なのか別にして、戦いの連続だったのは間違いありません。
東京の上野公園不忍池近くの岩崎弥太郎宅はゆとりのある大きい物ですが、心の中はゆとりが一度もなかったのではないでしょうか・・・・・・・おわり。


長い間お付き合いいただき有難う御座います。