yjimage弥太郎の生家でお会いした老人は、弥太郎のことを誇りに思い、ボランテァで掃除をしていました。老人には悪いですが、弥太郎の悪い噂もあります。
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写真←、岩崎弥太郎
あくまでも噂であって、本当のことは定かでありませんが、個々に推測して楽しんでください。
紀州藩からの7万両の内、4万両を土佐商会が預かったと記事にしましたが、普通考えてみると、何故土佐藩が預かるのかと言う疑問を持つと思います。
海援隊に援助した事実はあるが、貸していたなら返したとなるわけで可笑しな話です。
このお金は海援隊の物のわけですから、隊で分配したなら、納得できますが・・。





gotou7万両全て弥太郎が着服したのではないかという噂まであります。
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万両だけでなく、後藤象二郎が長崎に回送した樟脳代金16万両合わせて23万両もの大金が行方知れずになったとの噂まであるのです。
維新のどさくさの中、証拠の書類を焼却し、象二郎も事情を呑み込んでいたので追求されずに終わったとのこと、弥太郎が終生後藤象二郎に頭が上がらなかったのはこうした事情があったのではと疑いを持ちます。
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写真←、後藤象二郎

弥太郎はその後、土佐商会が大阪に移り大阪商会になると、彼は商会代表として土佐藩の海運事業を一手に握ることとなります。
その後、土佐藩の権小参事に就任し、土佐開成商社を設立します。
藩所有の船舶を貸与され、半官半民の商社になるわけです。
この会社は後に九十九商会と改称し、藩所有の財産と船舶のすべてが彼に任され、九十九商会は三菱商会と改称し、岩崎弥太郎の完全な個人の商社となるわけです。
弥太郎が何処からか大金を懐にして、なんらかの動きをし、このようになったのは間違いないと思います。
これが事実とするなら背任横領の金が三菱の基盤を築き上げる元となるわけで、これを書くと三菱関係の人は怒るでしょうが、このような噂もあるとのことで聞き流し許してください。

ここまでは上手くことは運びますが、すごい強敵が現れます。
半官半民の「郵便汽船会社」、この海運会社は政府の手厚い保護のもとにおかれていた。半官半民とはいえ内実は、三井の支配下におかれた船会社なのです。
三井と三菱が四つに組んだ海運をめぐる戦争「三井三菱海戦」がこうして始まったのです。
激しいダンピング競争で大赤字を抱え、経営は破綻状態に追い込まれ、あと何ヶ月持つかという状態まで弥太郎も追いつめられていくのでした。

「三井三菱海戦」はどうなるのでしょう。では又、明日。